Umbraとは?

Umbraでは、家庭のあらゆる部屋にオリジナルでモダンな、カジュアルなデザインを提供するというビジョンを共有しています。

グローバルなハウスウェアデザインカンパニーとして、好奇心、創造性、そしてデザインへの情熱によって動かされています。

グローバルチームは120カ国以上の国々とコラボレーションし、日常に新鮮な驚きをもたらす楽しいデザインを提供しています。

デザインストーリー

Umbra創設のきっかけ

Out Story

Umbra(アンブラ)のストーリーは1979年にシングルウィンドウシェードの発売から始まりました。

共同創設者のLes MandelbaumとPaul Rowanは、価格面でも品質面でも魅力があるモダンなデザインの製品をマーケットでのニーズから見出しました。

カナダのトロントに本拠地を置くUmbra(ラテン語で「影」という意味)は、プロダクトデザインの世界的リーダーとなり、同社商品は現在ヨーロッパ、カナダ、アメリカ、ブラジル、中国にオフィスを構え、世界120カ国以上で販売されています。

Umbraは、オリジナルデザインへの情熱とあらゆる家庭のための製品を作りたいという思いから生まれました。

Umbraでは国際的なデザイナーのチームが日用雑貨に創造性をもたらし、その原動力は革新性(イノベーション)です。

国際的デザイナーチームが世界中から得たインスピレーションを元に、常にオリジナルデザインの限界に挑戦し続けています。

SHOE HORNのストーリー


July 5, 2019

1977年、私は25歳の職人兼R&Bバンドのベース奏者で、地元トロントを拠点にちっぽけなバーで演奏活動をしていました。

この時、私はあちこち旅をしており、旅先で旧友を訪ねることがありました。

昔よく一緒に地下室でジャムセッションをしていた幼馴染、ポール・ローワンの居場所を探してみました。彼は、オタワの出版社でグラフィックアーティストとして働いているところを見つけました。

バンド仲間であるヴァル・スティーブンスと共にポールを訪ねると、部屋の窓には彼が作った、模様がプリントされた紙製のシェードがありました。

彼は、そのシェードが友人達にとても好評なので、商売として売る手伝いをしてくれないかと話を持ちかけてきました。

私がその一年前に起業して、ミュージシャンの機材運搬用カスタムロードケースメーカー向けのパーツを製作する小さな会社を起していたのを知っていたからです。会社の収入は当時の私にとって助かる副収入でした。

私は彼に、今の自分は音楽とビジネスの二束のわらじで手一杯で、とても力になれるとは思えないと言いましたが、その時バンド仲間のヴァルが、私の人生を変える一言をくれたのです。

ヴァルは、「僕はピアノを弾くことしかできないけど、君にはこれだけのチャンスが巡ってきてるじゃないか。よく考えた方がいいと思う」と言いました。

彼が私の音楽的才能をどう考えていたかは分かりませんが、ポールは交換条件として、もし私がシェードビジネスのパートナーとして協力すれば、私のTCHロゴやカタログ、名刺等を作ってくれると言い出しました。なかなか魅力的な申し出だったので、請けることにしました。

トロントに戻った後、私は紙のシェード発売に必要な資金を4万ドルと算出しました。ポールは、1万ドル貸してくれれば自分は会社の権利を25%所有して、今の仕事を辞めてトロントに来ると言いましたが、そんなお金は私にはありませんでした。父に頭を下げましたが、馬鹿げていると相手にしてもらえませんでした。

次に、父の銀行でもあるトロントのダウンタウンの銀行に行って知り合いでもある貸付担当のアシスタントに相談しました。(ちなみに、今Umbra旗艦店がある場所からほんの2ブロックの場所にその銀行はありました)

アシスタントに聞かれた一般的な質問の答えは散々なものでしたが(連帯保証人は?いません。持ち家は?ありません。担保は?何もありません)ですが、どうにか融資が承認され1980年1月にUmbra Shades Ltd.が法人登録されました。

 


さて、Umbra(アンブラ)という社名は私のガールフレンドがつけました。私より学のあった彼女は「シェード(陰)」という言葉のラテン語訳を提案し、響きが気に入ったので私達の会社はUmbraと命名され、今もその名称でやっています。

光を適度にさえぎり、また色あせない紙を探したり、そんな紙に印刷できる印刷機を探したり、色々と課題にも直面しましたが、トロントでどうにか取り扱ってくれる販売先も見つかりました。ポールが最初にデザインしたのはヤシの木で、次は北斎の波の絵、それからストライプとデザインが変遷して行きました。

父は私がやっと「場末のバーで聴かれてもいない音楽を演奏する」ような生活から抜け出したことを喜び、いくらかの倉庫スペースを提供してくれました。とはいえすぐに追い出され、以降1999年までの間あちこちの工業用地を転々することになります。

Umbraは地元の独立系デザイン・日用雑貨店には好評でしたが、あらゆるサイズと色の商品を全て在庫し、店頭に並べるのは私達にとっても店舗にとっても非常に難しく、4万ドルの融資はまたたく間に底をつき、更にロードケースのパーツ会社からの利益さえ吸い上げていきました(幸いにも私はまだ演奏を続けていましたが)。

私達はトロントとモントリオールで商品を売り始めたばかりでしたが、私はアメリカで大学に通った後仕事と音楽活動をアメリカでしていた時期があったので、試しにニューヨークに進出してみないか?と提案し、シカゴの家庭用品・日用雑貨展示会に出展することにしました。

1982年に不況の波が襲い、利子は18%になろうかという勢いでしたが、同時にCrate&BarrelやPottery Barn、The Container Storeといったデザイン重視の専門店の波も来ていました。これらの店に私達のカジュアルでモダンなデザインでありながら手頃な価格、という明確なコンセプトの商品が受け入れられ、私達のアイディアやアプローチは好感触でした。

しかしここで問題が浮上しました。これらの小売店の多くは窓のシェードの取扱が難しかったのです。そこで私はポールに、窓ではなく壁や棚を飾れる商品があれば、僕達は生き残れると提案しました。

私達にとってのターニングポイントは、ウィンドウシェードの端材をラミネートして作ったランチョンマットの開発でした。この商品の開発に要した時間は一時間です。当時ニューヨークのおしゃれな小売店として人気だったHenny Bendel’sが、洗練されていて素晴らしいと絶賛し、製造したすべての品が売れました。

次に私達は端材のプラスチックやフォーム、壁材を使って、当時新しい技術だった電池式の壁掛け時計を作りました。

こうして危機的状態から脱することが出来き、
Umbra は1983年に黒字化しました、私は自分へのご褒美として夢だったポルシェを買うことにしました。

CLOCKのストーリー


July 7.2019

80年代の初めはUmbraにとって苦闘の毎日でした。

Umbra初の商品はプリント紙製のウィンドシェードで、評判にはなりましたが利益は取れませんでした。

その時気付いたのは、シェードという各家庭の窓に応じた多数のサイズやカラー展開が必要となる商品より、カジュアルで値段も手頃、かつモダンなインテリアや雑貨の需要が高いということでした。シェードはディスプレイも在庫管理も難しく手間がかかりました。そこで私はビジネスパートナー兼共同創立者のポール・ローワンに、壁にかけたり店の陳列棚に置いてディスプレイできる商品を開発するよう提案しました。

そして、家庭用品に転用できる新しい技術に目を光らせることも怠ってはいけません。当時はコンセント式の時計から電池式でどこにでも置ける時計への移行が進んでおり、新規メーカーが電池式時計に参入しやすい状況になってきていました。

私達は当時既にシカゴの家庭用品展示会(Chicago Howsewares Show)に出展するようになっており、ある時隣の小さなブースでBrodというモダンなガラスの時計が展示されていました。

その経緯で出展企業と親しくなり、カナダの販売権を獲得しました。ビジネスは非常に順調に成長し、やがて私達はコストカットのために自社で時計を製造し、その企業にロイヤリティを支払って販売できないかと持ちかけました。

ビジネスは更に発展し、私達はBrodより高性能で低価格の時計を製造できるようになり、自社独自デザインと素材を取り入れるようになりました。同時にBrodの業績は思わしくなくなり、会社を売却することになり、ほどなくして時計の製造自体を止めることになった為、Umbraは同社との契約を買い取り、世界規模のクロックビジネスに乗り出しました。

ポールは、メゾナイトとフォーム材製の時計をプリントしたビニールで被覆する技術を編み出し、アイスクリーム型をはじめとする様々なユニークな形の時計を作り出しました。

これらの時計は大ヒットし、その後の時計業界に大きな変化をもたらしました。

CANSのストーリー

July 4, 2019


80年代の終わりにはUmbraは紙製の窓用シェードに留まらない、多種多様な商品を扱うメーカーに成長していました。シェード市場はあまりにもニッチで、小売店でも在庫管理・ディスプレイ共に難しく、取扱いづらかったのです。それに代わって、よりシンプルなランチョンマットや時計といった商品が人気を集めていました。私達の市場は変化しており、また当時アメリカで成長していた専門店チェーン業界のニーズに応じて進化していました。専門店は私達のカジュアルでモダン、そして機能的なデザインというコンセプトに共鳴し、また成長する市場が家庭用品のベンダーを常に探していた所に私達がぴったりマッチしていたと言えるでしょう。

Umbra商品は既に世界各国で販売されており、私は頻繁に様々な国を訪れてクライアントに会ったり、展示会に出展したりして新しいアイディアを模索したりインスピレーションを得たりしていました。ある時パリのレ・アルで買い物をしていた私は、玩具店でカラフルなスイングトップのゴミ箱を見つけました。興味を惹かれて購入し、その商品が日本製であることを突き止めました。その時私は、トイレ用にぴったりのサイズだと思うと同時に、もっと大きくすれば他の部屋に置いてもよさそうだ、と感じました。当時はスイングトップのゴミ箱といえば業務用か、市場に出回っているゴミ箱はありきたりのつまらないデザインのものばかりで、ゴミ箱をポップな明るい色で作るなどというアイディアはなかったのです。Umbraの他の家庭雑貨と同様のコンセプトとして、家庭で使うものなのだから、隠すのではなく見せるデザインにしたら新しい世界が生まれるのではと思いました。

早速日本の製造元に連絡を取り、同社に何点かサンプルを送ってもらいました。まず少数のスタッフに見せてみると、小さ過ぎて実用的ではない、そもそもなぜうちで「ゴミ箱」を売るのか、といった意見が優勢でした。スタッフの意見ももっともだとは思いましたが、丁度ニューヨーク・ギフトショー展示会の直前だったので、ショーで展示して反応を見てみようと思い、サンプルを探したのですが見つかりません。私がサンプルを見せたスタッフが全員持ち帰っていたのです。

「駄目出ししたサンプルを何故持って帰ったのか」とスタッフを問い詰め、返却するように求めて、ショーに何点か持って行きました。カタログに記載すらしなかったにも関わらずゴミ箱は注目を浴び、早速数百点発注し、気がつけばUmbraはゴミ箱商品も展開するようになっていました。そしてゴミ箱業界にも改革をもたらしたのです。

まず私達は更に大型のプラスチック製スイングトップ型のゴミ箱を開発しました。最初の課題はUmbraでは機械設備の予算がなかった点です。あちこちの代理店と話した結果、最も興味を示したのはとあるドイツの輸入企業で、プラスチックの知識も豊富でした。とにかく最も適任の工作機械製作者を見つけられた企業と契約しようと決定したところ、そのメーカーがイタリア北部の素晴らしい機械製作者と金型製作者を見つけてきました。そこで金型費用を折半してゴミ箱を製造し、これも大ヒット商品になりました。瞬く間に輸入量も膨大になったため、製造拠点を北米に移すことにしましたが、イタリアのどこかにある金型の50%は、一応はまだ私達のものです。

このヒットを受けて更なるゴミ箱の開発を行うことになりました。その頃ポール・ローワンと私が出会ったのが、カリム・ラシッドという名のトロント在住のインダストリアル・デザイナーです。彼は自身のアパレルブランドを廃業したばかりで、当時DJとして活動していました。私は彼を私達のオフィス兼工場兼倉庫に招待しました。彼が提案したデザイン性の高いゴミ箱はGARBOと命名され、とてもよく売れましたがやや大きすぎました。彼はすぐに小型バージョンをデザインし、GARBINOと名付けたこのゴミ箱もヒットしました。ちなみにこのゴミ箱はニューヨーク近代美術館(MoMA)に展示されるという快挙を遂げています。以降私達は様々なゴミ箱を開発し、その多くが他社にコピーされましたが、今なお新商品の開発を続け、金属や新しい素材を利用した新しいデザインを生み出し続けています。

これまで省みられることの少なかったゴミ箱がインテリアとして注目されるばかりか、重要視されるようになったといっても良いでしょう。

SHOE HORNのストーリー


July 6, 2019

私は時折1999年のUmbraカタログを見返します。

当時私は、父の日のプレゼントを探していました。父は60代でしたが、私は、「うちの会社はギフト商品をデザインしているし、60代男性に向けた商品もある」と思っていました。

ところが、何もなかったのです。

父は幼少期に小児麻痺を患っており、毎朝靴を履くのも一苦労でした。安っぽいプラスチックの靴べらを使っていたっけ、と思った私はひらめきました。

当時のUmbra デザイナーの一人、デビッド・クアンにプレゼントになるような洒落たデザインの、鋳造アルミニウムの靴べらを作ってくれと提案しました。

そして数ヵ月後、スリップシューホーンが誕生しました。

それから今日まで、この商品は幾度となく廃盤の危機を迎えましたが、その度に私が個人的な思いで阻止してきました。

そこには父の思い出という私情が絡んでいることは否定しませんが、それだけでなく、私自身が60代半ばを過ぎて膝を悪くしており、この商品に毎朝どれだけ助けられているかわかりません。

PHOTO DISPLAYのストーリー

80年代終わり、既にUmbraは小売店のニーズに合わせて多様な家庭用品を作り出す企業へと変貌を遂げていました。

フォトフレームは過去50年の間に一般家庭に浸透して行きましたが、同時に写真の現像様式も大きく変化していました。写真撮影にはまだフィルムカメラが使われていましたが、現像はドラッグストアやスーパー等で手軽に、しかも短時間で出来上がるようになってきたことでフレームの需要も伸びていました。そういった時代の変遷にフレームは取り残されていた、と言ってもいいでしょう。市場に出回っていたフォトフレームの多くは旧態依然とした「写真立て」の域を出ないものものでした。私達が初めて制作したフレームは当初は日本の、そして後に台湾の木製フレームからヒントを得たものでした。90年代に入るとUmbraは革新的なフレームをデザインし、タイやインドネシアの工場で生産して成功を収めていました。

ある時ニューヨーク出張の際に、最近流行の兆しを見せているコラージュタイプのフォトフレームに、まだ私達が手をつけていないと指摘した営業担当者がいました。コラージュフレームとは、大きなフレームの内部に様々な形に切り抜いた紙を配置して、写真をはめ込めるようになっているフォトフレームです。私は早速共同創立者であるデザイン部長のポール・ローワンに、紙ではなく木の仕切りを使ったコラージュフレームを作れないか持ちかけました。

タイ工場からは反発がありましたが、ポールが粘り強く説得し、フランクフルトで素晴らしい試作品を見せてくれました。この、私達が初めて作った、複数の写真が飾れるフレームはあっという間に業界を席巻しました。すぐにタイ中の工場が私達の”impossible”フレームの類似品を製造するようになりました。これが初めて中国工場で製造した商品です。

時が経ち、幾多のコピー商品や類似品が消えて行きましたが、私達のコラージュフレームの人気はいまだ衰えていません。

今日では技術の進歩と共に写真のあり方も大きく変わりました。これまでになく写真が撮影されていながら、印刷される機械が激減するという興味深い時代を私達は生きています。このため多くのフォトフレームメーカーが消えて行きましたが、Umbraと彼らを隔てるものは何だったのでしょう。

私達はフォトフレームというジャンルを新しく「フォトディスプレイ」と命名し、遊び心のある、彫刻のような、あるいは幾何学的な、一歩先を行くデザインを採用し、新しい素材も積極的に取り入れています。フレームの中にはオリジナルのアート作品を入れてありますが、そのまま飾られることも多い芸術性を持っています。他社フレームによく使われているような「美貌の男女が笑顔で並んでいる」といった、間に合わせの写真ではありません。

Umbraは時代に合わせて成長し、また時代を先取りしてきました。私達のフォトディスプレイ部門はこれまでになく大きく花開いています。

カーテンロッドのストーリー

Umbraのデザインアイディアの多くは、個人的な不満や欲しいと思ったものがないという欲求から生まれています。

80年代後半、当時住んでいたアパートの窓にシェードか何か欲しいと思った私は、近所のDIYショップを訪れました。当時既にUmbraではオリジナルのウィンドウシェードを製造していなかったからです。しかし店頭に並んでいたのは、どこにでもあるような白い突っ張り棒やどうにも魅力に欠けるカーテンやベネシャンブラインドといった、ごくありきたりのものばかりでした。カスタムメイドのウィンドウ専門店にも聞いてみたところ、先端に飾りのついたよくあるタイプの伸縮棒が200ドル、それも3週間待ちと言われました。 そこで私達は、これなら自分達でも作れるし、値段も何分の一かで手軽に買える商品が私達が取引している小売店に提案できると思いつきました。

私は当時既にTrans-Canada Hardware社を興しており、金属部品のカット、メッキ加工、ダイカスト等ができる設備がありました。

つまりサイズ違いのスチール管を仕入れて、カット・メッキしたものを入れ子にして組めば伸縮棒が作れる訳です。先端の飾りには真鍮玉や門扉の先端の飾りをブラケットで取り付ければ良いでしょう。最大の課題は、伸縮棒を保護すると同時に店頭で見栄えのするパッケージをデザインすることでした。そこさえクリアできれば小売店に見てもらうことができます。

とはいえ棒だけでは物足りません。やはりカーテンも必要です。最初に仕入れてデザインしたのはシンプルな白のコットンパネルで、中身が見える透明な袋にパッケージして販売しました。

販売は困難を極めました。多くの小売店に断られた後、私はサンフランシスコのPottery Barnにこの商品を提案してみました。当時の社長は興味を持ったものの、過去にウィンドウ関連商品を扱ったことがなく、店頭でのディスプレイも難しいという意見でした。当時カタログ販売が流行し始めていたので、カタログに小さく写真を載せてはどうかと提案しました。彼女は、これまで店頭販売していない商品をカタログに載せたことはないと難色を示しましたが、やってみようということになり、カタログに掲載したところ好調な滑り出しで、ほどなくカタログの1ページを丸々使うようになり店頭にも並ぶようになりました。この成功を受けてBed Bath & BeyondやLinen n’ Thingsといった他の店もこの商品を取り扱うようになりました。

そしてカーテンロッドはUmbraの屋台骨に成長し、私達の工場が90年代初頭に中国工場に移転する前の、トロント工場で最後に製造された商品になりました。それまでも中国やインドから幅広く輸入していましたが、それでも海外工場で技術指導して突っ張り棒の製造方法を伝えたり、あるいは合弁事業でコピー商品に対抗できない状況になってしまう危惧もありました。既にそれらの国で類似商品が出回っている事実もありましたが、それらは品質が良くありませんでした。

中国では丁度その頃WFOE(外資独資企業)が許可された所で、建物を借りるなり建てるなりすることは可能でしたが、従業員の雇用や訓練を考えると、中国工場設立を任せられる信頼できる人材が必要でした。

私は中国に飛びWFOEを登録し、コンドミニアムを6棟購入して(後に価値が10倍になったので良い買い物をしたと思っています)、一時的に自社の工場の一部を移転させ、幹部を送りました。

そして深セン郊外に設立されたUmbraのANBOは、今日では現地中国人マネージャーと従業員550人を抱える工場に成長しました。

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